日進の歴史
みなさん、こんにちは!このページでは旧大宮市域にあたる、さいたま市北区・日進地区の歴史について解説します。
・江戸時代以前
・明治時代・大正時代
・昭和時代
・平成時代
・令和時代
この5つの時代区分に分けて解説したいと思います!
江戸時代以前
日進地区は、南北朝時代(1300年代)以降に記録が残る足立郡の一部「加村(賀村とも)」の地域に相当します。この少し前でしょうか、1200年代には満福寺が創建されたといわれています。満福寺は由緒不明ながら、「興雲尊者を開基の祖とする(意訳)」と1282年の過去帳に記されています(1298年草創との説もあります)。また、今の日進町2丁目にかつて存在した満福寺の末寺である東光寺にあった雲版が、鴻巣市の雲祥寺(加須市騎西の善応寺の可能性もあり)に保管されており、そこに明徳5年(1394年)と記されていることからも、満福寺の歴史の長さが分かります。一方、日進町1丁目にある金剛院も南北朝時代の創建といわれています。
加村は中世が近世になるころ(1600年以前)に日進町2丁目にあたる「上加村」と日進町1丁目にあたる「下加村」に分かれました。1608年には2村に加え、日進町3丁目にあたる「西谷村」の記述があるそうなので、それ以前に分かれたことになります。
上加村は1884年発行の「新編武蔵風土記稿」に、江戸時代以前には水判土荘に属していたとあります。その後、江戸時代には武蔵国足立郡吉野領に属していたとされていて、1800年代前半には50軒の家があったそうです。
下加村は江戸時代以前には大谷領に属していたといわれています。その後、江戸時代には上加村と同じく武蔵国足立郡吉野領に属していたとされていて、1800年代前半には33軒の家があったそうです。また、甘藷(さつまいも)の生産が盛んだったという話もあります。
西谷村は江戸時代以前には高鼻領に属していたといわれています。その後、江戸時代には武蔵国足立郡大谷領に属していたとされていて、1800年代前半には20軒の家があったそうです。
明治時代・大正時代
明治2年にあたる1869年、大宮県が設置され、同年、浦和県に改称しました。2年後の1871年11月には廃藩置県によってついに埼玉県が誕生し、各村は埼玉県内の村となりました。1873年4月、満福寺内に上加学校(のちに日進学校に校名変更)が開校。現在の日進小学校です。創立には地元の高橋源之輔氏(のちの日進村初代村長)が尽力したと伝えられています。
1879年には前年制定の郡区町村編制法によって北足立郡所属になりました。1883年、日本鉄道第一区線(現在の高崎線)が開業し、鉄道が現在の大成町4丁目付近を通ることになります。1885年には大宮駅が開業しました。
そして1889年4月1日、ついに「日進村」が誕生しました。村名は日進小学校の前身、日進学校からとったものです。日進村は上内野村・西内野村・櫛引村・西谷村・上加村・下加村・大成村の合併により誕生して、その村域は現在の日進地区・東大成町・上内野・西内野・宮前町・大成町・櫛引町・桜木町の一部と三橋の一部に及びました。村の誕生時の人口は2495人、戸数は404戸だったそうです。
1906年に川越電気鉄道(のちの西武大宮線)が開業し、日進村の南西側、現在の三橋6丁目に電停が設置されました。1908年には現在の宮原駅の場所に加茂宮信号所が開設され、1922年に加茂宮信号場となりました。
1907年、日進村に鎮座する46の神社を合祀し、社号を永川社から改めて日進神社が成立しました。
新築の役場を上加においた日進村は優秀な村として評価されていたようです。ちなみに、合併前の「上加」「下加」「西谷」は大字として存続しました。
昭和時代
1934年、新国道(国道17号線)の志村~大宮間が開通し、東京へアクセスしやすくなりました。
1939年、陸軍造兵廠大宮製作所が日進町1丁目に開設。この場所は戦後、アメリカ軍に進駐されたのち、1957年に陸上自衛隊大宮駐屯地になっています。
1940年7月22日、川越線が開業。同時に日進駅が誕生しました。この影響もあり西武大宮線は12月に休止、翌1941年に廃線となりました。
1940年11月3日、大宮町・三橋村・日進村・宮原村・大砂土村が合併し大宮市が誕生しました。これにより、日進村は51年の歴史に幕を下ろします。
1944年7月8日、日進国民学校(日進小学校)の児童の疎開が開始。戦争が激しくなっていきました。そして1945年8月15日、長く続いた太平洋戦争・第二次世界大戦が事実上終戦を迎えます。戦時中は物資が足りず、また十分な教育も行えなかったといいます。
1947年4月3日、大宮市立第三中学校(現在の日進中学校)が開校。当初は日進小学校を間借りしての授業でした。9月には日進駅北側の中島飛行機青年学校跡を改造した独立校舎で授業を開始しています。同年9月、日進町1丁目に日進公民館が開設されましたが、これは現在の場所とは異なります。
1947年に廃止された加茂宮信号場の跡地に、翌1948年7月15日、宮原駅が開業しました。
1950年に大宮工業高校が現在大宮中央高校や大宮西部図書館がある場所(櫛引町2丁目)に移転しました。同じ年、日進幼稚園が開園しました。次いで1951年には日進中学校が大宮工業高校隣の現校地に移転しました。移転で空いた日進中学校の旧校舎を利用して日進北小学校が開校したのも1951年です。
1955年1月1日、指扇村・馬宮村・植水村・片柳村・七里村・春岡村が大宮市に編入されました。
学校関係でも大きな動きがありました。1956年4月1日に埼玉県大宮市立高等学校(現在の大宮北高校)が開校。現在の場所に校舎が完成する翌年7月まで日進仮校舎などで授業が行われました。通常の学校とは異なりますが、1957年10月15日には陸上自衛隊化学学校が日進町1丁目に開校しています。1959年の全日本吹奏楽コンクールでは大宮工業高校ブラスバンドチームが優勝しました。
1957年7月10日、町名地番変更が行われ、大字だった上加の一部から大成町4丁目が成立しました。ちょうど1年後の1958年7月10日には、大字だった上加・下加・西谷・大成・櫛引の各一部から日進町1丁目・日進町2丁目・日進町3丁目・櫛引町2丁目が成立しました。1957年には先述の通り陸上自衛隊大宮駐屯地が開設されました。
1960年、日進まこと幼稚園が開園しました。
1962年5月1日、大宮バイパス(現在の国道17号線・東大成町交差点以北)が開業し、県北へアクセスしやすくなりました。同年、日進町1丁目にあたる場所に農業機械化研究所が設立されました。研究所は生物系特定産業技術研究推進機構(生研機構)を経て現在は農研機構の農業機械研究部門が置かれています。
1966年、宮前町にのはら幼稚園が開園。すぐ後に第二まこと幼稚園(現さくらアート幼稚園)も開園しました。
1968年、大宮工業高校野球部が春の選抜高校野球に初出場ながら初優勝という快挙を達成しました。
1969年には新大宮バイパス(大宮市内部分)が開業。宮前町などを通ります。
1970年、日進公園東側に勤労女性ホームが開館。2011年に建物はそのままに日進公園コミュニティセンターとなっています。
1972年に大宮日進七夕まつりが初開催。以来、2020年と2021年を除いて毎年実施されています。
1973年8月、日進中学校男子バスケットボール部が全国大会で優勝しました。
1974年に埼玉大学教育学部附属養護学校(現埼玉大学教育学部附属特別支援学校)が日進の現校地に移転し、1975年には鴨川小学校が開校。しかし、9か月後の1976年1月に宮前小学校に改称しました。短期間で改称したのは、地元の要望を無視して校名を決定した大宮市に地元住民が猛抗議したためといわれています。宮前小学校開校と同じ1975年には明和幼稚園も開園。4年後の1979年には日進中学校から分離する形で宮前中学校が開校。宮前小学校の失敗を繰り返さないようにと慎重に校名が検討されました(ちなみに検討時の仮称は日進第二中学校でした)。一方、櫛引では1980年から3年をかけて大宮工業高校が移転。日進地区を離れ本郷に校舎を構えました。
1982年6月、現在フードガーデン日進店がある場所に丸広百貨店日進店がオープン。2002年に閉店するまで地元住民に愛されていました。現在はその実質的な役目をイオン大宮店に譲っています。
1982年6月23日に東北新幹線が、11月15日に上越新幹線がそれぞれ開業し、日進から新幹線を望めるように。翌1983年12月22日には埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)が羽貫まで開業し、日進地区から大成駅(現在の鉄道博物館(大成)駅)と加茂宮駅の利用ができるようになりました。鉄道の動きが激しい80年代。1984年2月1日に日進駅で貨物列車や荷物の取り扱いが廃止されると、翌年の1985年9月30日に川越線が全線電化。大宮~日進間が複線化され、埼京線との直通運転が開始されました。日進から乗り換えなしで東京に行けるようになったのです。そして1987年には国鉄が民営化。日進駅や宮原駅はJR東日本の駅となりました。
1985年、日進給食センターが開設されました。現在は閉鎖され更地になっていますが、今後公園を造る計画だそうです。
1987年4月、大宮工業高校跡地に大宮中央高校が移転してきました。もとは浦和通信制高校という名称で、移転に合わせて改称しました。隣接した場所に、6月には西部図書館(今の大宮西部図書館)が開館、8月には大宮西郵便局が開局しました。
平成時代
1998年には西大宮バイパスが開業。宮前インターチェンジも開業しました。宮前インターチェンジは国道16号線の新大宮バイパス・西大宮バイパス、国道17号線の新大宮バイパス・上尾道路、県道216号線(上野大宮線)が交わる複雑なジャンクションとなっています。
2000年、日進小学校近くの東急車輌跡地に大型スーパーの大宮サティ(現イオン大宮店)がオープン。映画館のワーナーマイカルシネマズ大宮(現イオンシネマ大宮)も併設しています。
2001年5月1日、大宮市・浦和市・与野市が合併してさいたま市が誕生。日進地区もさいたま市に含まれることになりました。
2002年12月1日には東京臨海高速鉄道りんかい線と埼京線を通じての直通運転が開始されました。これにより日進から乗り換えなしで新木場まで行けるようになりました。
2003年4月1日よりさいたま市が政令指定都市になり、9つの区が誕生。日進地区は北区に、宮前地区は西区に含まれます。2005年にはさいたま市と岩槻市が合併して岩槻区を含む10区体制、現在のさいたま市と同じ形になりました。
2007年10月14日、鉄道の日に鉄道博物館が開業しました。住所は大成町3丁目ですが、エントランス以北は大成町4丁目に含まれる部分があります。
再開発に先駆ける形で2008年にカルソニックカンセイ(現マレリ)本社が完成し、ついに2009年3月に日進駅北側・大成建設跡地の再開発が完了しました。うねうね公園やパークシティさいたま北もこのとき完成したものです。また、それと同時に日進小学校や日進北小学校などから分離する形で、宮原町3丁目につばさ小学校が開校。開校式では当時NHKで放送されていた連続テレビ小説「つばさ」の主人公を演じていた多部未華子さんからビデオメッセージが届いたそうです。2010年3月1日には商業施設「istα!日進(イスタ日進)」がオープンし、現在の街並みが出来ました。
再開発に合わせて日進駅は2010年に橋上化。このとき、記念セレモニーが行われ、市長や市議会議員が訪れたほか、ステンドグラスのお披露目や日進餅つき踊りの披露がありました。その後、2011年に北口駅前広場が完成しました。
2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生し、埼玉県でも被害が多く出ました。さいたま市でも列車が止まったことでいわゆる「帰宅難民」が発生したほか、西区では学校が破損するなどしました。一連の災害は東日本大震災と呼ばれています。同年9月29日、日進小学校で駅伝選考会中だった6年生の桐田明日香さんが倒れました。養護教諭などが対応にあたりましたが、AEDが適切に使われず、翌30日に明日香さんは亡くなりました。この教訓を生かしてさいたま市教育委員会は遺族と協力し「ASUKAモデル」と呼ばれる救命マニュアルを作成。2012年に発表しました。2011年は命の尊さについて改めて実感した1年だったといえます。
2016年、日進駅南口ロータリーの整備が完了し開設。タクシーや一般車が停まれるようになりました。
令和時代
2019年11月30日には埼京線などを通じて相模鉄道との直通運転を開始。一部列車で日進から神奈川県の海老名まで行けるようになりました。
2020年初頭、新型コロナウイルス感染症が日本で流行し始めました。3月から5月にかけてさいたま市立学校が休校になるなど、大きな影響が出ました。新型コロナとの戦いは今も続いています。