鉄道のまち大宮紀行(3) 大宮駅140年の歴史・前編

みなさん、こんにちは! 日進大宮なび代表のnorthです。

2025年から、地域の周年にまつわる特集を組むことになりました。今年は「鉄道のまち大宮の140年」と「大宮盆栽村 開村100年」の2本立てでお送りします。どうぞお付き合いください!

さて、「鉄道のまち大宮の140年」の一環として以前からの連載である「鉄道のまち大宮紀行」を更新していきます。第3回と第4回は連続して「大宮駅140年の歴史」を前後編でお届けします!

鉄道開通前の大宮

今でこそ鉄道のまちと呼ばれる大宮ですが、鉄道が開通する前はどのような状況だったのでしょうか。

▲武蔵一宮氷川神社

そもそも大宮の地名の由来は「大いなる宮居」=武蔵一宮氷川神社だといわれています。創建は紀元前400年前後ともいわれており、2028年には御鎮座2500年を迎えます。そんな氷川神社の門前町として、大宮には住居が集まっていました。

江戸時代に入ると、江戸・日本橋から京都までを結ぶ中山道が整備され、大宮は旅館や人馬の取次ぎをする宿駅(宿場町)として発展することになりました。農業生産も盛んだったようで、余剰物を江戸に持っていき販売したそうです。

▲中山道大宮宿の様子(提供:さいたま市立博物館)

しかし、明治維新後の大宮は人口減少の一途をたどり、町勢も衰退していきました。一時期3000人以上いた人口は、952人まで減少したともいわれています。この理由として、当時の「大宮県」が「浦和県」に改称され、行政の中心が浦和に移ったことが挙げられます。

最初は駅なし全通過! 大宮に鉄道が通った日

1872年(明治5年)に新橋~横浜間に鉄道が開通したのは有名ですが、それ以降も各地で鉄道が建設されました。政府は原則として「官有鉄道」(=国が鉄道を建設し保有する)を建設するとしましたが、不平士族の反乱鎮圧などに多額の費用を要し、財政に余裕がなくなったため、民間の鉄道建設を進めるようになりました。

▲1号機関車

そうして、日本最初の私鉄である「日本鉄道会社」が誕生すると、建設する5つの区間を示しました。それがこちらです。

第一区線 東京より高崎まで
第二区線 右中央より白河まで
第三区線 白河より仙台まで
第四区線 仙台より盛岡まで
第五区線 盛岡より青森まで

おわかりでしょうか? そうです、現在の高崎線と東北本線(宇都宮線)のルートなのです。第二区線の「右中央」とは「東京から高崎までのどこか中間地点」という意味で、この時は決まっていませんでした。

1882年(明治15年)、川口から第一区線の工事が始まりました。工事には善光号と呼ばれる蒸気機関車などが使用され、この善光号が埼玉県内をはじめて走った蒸気機関車になりました。

▲善光号

工事は順調に進み、翌1883年(明治16年)7月26日に上野~熊谷間の工事が完了、7月28日に開通しました。この時設置された駅はわずか6駅で上野、王子、浦和の次は上尾まで飛び、鴻巣、熊谷と至っています。つまり、大宮は鉄道路線が通りながら駅が設置されなかったのです。

その後も徐々に区間は伸び、1884年(明治17年)に上野~高崎~前橋間が全通。1885年には品川~赤羽間が建設され、官営鉄道とも連絡しました。

▲「従東京上野至熊ヶ谷蒸気車往復繁栄之図」(提供:さいたま市立博物館)

大宮駅が出来た

人口減少などもあり駅の設置が見送られた大宮。そんな大宮にどうして駅が作られたのでしょうか。

第一区線が開通すると今度は東京から青森までの鉄道(第二~第五区線)を建設する必要があります。そこで問題となったのが高崎線との分岐点です。計画には「右中央」とあいまいな書き方しかされておらず、浦和や岩槻、熊谷など様々な案が出されました。

第一区線開設以前、お雇い外国人でイギリス人のボイルは、東京との往復に便利であり、最も費用効果の高い大宮はどうか、と提案しています。一方でアメリカ人のクロフォードは岩槻を提案しています。

その後、栃木の住民が地元に鉄道を通そうと、分岐点を熊谷に誘致する運動を始めます。一方、大宮でも白井助七ら地元住民が誘致運動を展開します。のちに大宮町長を務める白井は、駅開設後も鉄道工場の誘致に努め、大宮に再び活気を取り戻した人物です。白井助七については別の記事で詳述したいと思います。

▲白井助七(鐘塚公園)

1884年(明治17年)、ついに大宮分岐での建設案が採用されました。これは関東平野を縦断するため工事が容易であることなども理由になっています。その後すぐに着工し、1885年(明治18年)、利根川の橋梁を除く大宮~宇都宮間が開業しました。

ちなみにボイルの案では大宮分岐岩槻経由でしたが、地理的条件により現在と同じ蓮田・久喜経由に修正されています。ちなみに、修正された理由として、岩槻や粕壁(春日部)に鉄道建設反対運動があったという話もありますが、近年、鉄道忌避についてはその信憑性に疑問が呈されています。

▲大正初期の大宮停車場(提供:さいたま市アーカイブズセンター 1914年)

大宮~宇都宮間の開通に先立ち1885年(明治18年)3月16日に町民待望の大宮停車場が開業しました。これにより、いままで大宮を通過していた第1区線の列車はすべて停車するようになります。当時の機関車はほとんどがイギリス製で、客車は定員が50人ほど(下等車)の日本製の客車でした。当時は貨物列車も運転されており、貨車については初期はイギリス製でしたが、すぐに日本製に切り替わっていきました。

大宮駅の発展

当初、上野~大宮間は線路が1本の単線でした。しかし、宇都宮以北へも延伸し交通量と鉄路の重要性が増す中で、将来に備え線路の複線化を進めることになりました。1892年(明治25年)、荒川橋梁以外の複線化が完了し、1896年(明治29年)には荒川橋梁も複線化されました。

▲大宮総合車両センター(旧大宮工場)

1894年(明治27年)には大宮駅北側の12万7113.9平方メートルの広大な土地に大宮工場が建設され、車両の修繕や製造を行うようになりました。大宮工場については別の記事で詳述します。

当時は日清・日露戦争の真っただ中ということもあり、鉄道は軍事的な側面を強く持っていました。当時大宮に軍は置かれていなかったものの、出征する兵士を見送る利用客も多く見られたといいます。

1906年(明治39年)、軍事的な理由もあり17私鉄の国有化を定めた鉄道国有法が成立、公布されました。日本鉄道も国有化され、大宮駅も私鉄の駅ではなくなりました。

大宮駅を起点に川越や岩槻まで馬車が走り始めたのもこのころです。川越や岩槻までの馬車は一定数乗客がいたといいますが、1908年(明治41年)に開業し4年足らずで廃業した大宮~原市間の通称「安藤馬車」など、長続きしなかった路線もありました。

▲現在のさいたま市西区五味貝戸付近を走る川越電気鉄道の車両(提供:さいたま市立博物館 1938年~1939年)

明治の末には川越~大宮間に川越電気鉄道が開業し、西方向への交通手段も馬車から電車へ変化しました。岩槻方面へも岩槻電気軌道の計画がありましたが、こちらは頓挫しています。

官有鉄道の管轄が帝国鉄道庁から鉄道院、鉄道省などと変化していく中、大宮駅の乗降客数は増加していきました。1887年(明治20年)には6万人余りだった乗降客数は、国有化後の1907年(明治40年)には62万人余りとなっています。貨物に関しては、大宮から発送する荷物は甘藷(さつまいも)が最も多く、ついで繭が上位に入ります。当時の大宮は「製糸のまち」でもあったのです。

省線電車の開通

1919年(大正8年)、第1次世界大戦後の不況対策の一環として、石炭を節約するため国有鉄道の電化方針が閣議決定されました。大宮駅が電化されたのは1932年(昭和7年)で、大宮~赤羽間が電化されました。この区間の電化に際し「赤羽・大宮間電化期成同盟」が活発に活動したといわれていて、埼玉会館で県民大会を開催したり複数回にわたり陳情をしたりしたそうです。

▲埼玉会館(提供:さいたま市アーカイブズセンター 1928年)

電化された区間には「省線電車」として電車が走るようになりました(現在の京浜東北線)。当時の住民は「さあ祝杯!踊れ、唄へ、そしてウンと飲め!!電車はいよいよ今日、吾々の前にデヴュウするのだ」(『国民新聞』1932年9月1日)と大歓喜だったようで、実際上野~大宮間の所要時間も1時間から40分間に20分短縮され、運転間隔もラッシュ時は8分間隔と汽車の2倍以上になりました。

大森~蒲田間を走る省線電車(提供:さいたま市立博物館 伊藤東作氏蔵 1934年)

大宮操車場の拡張

乗降人員の増える中、貨物輸送の数も増えていった当時、より多くの貨車を捌く必要が生まれてきました。そこで大正末から昭和初期にかけて大宮操車場の拡張工事が行われ、1日3500両の貨車を捌けるようになりました。また、1929年(昭和4年)には大宮から東へ向かう総武鉄道(現在の東武野田線)が開通し、翌年には柏まで全通。大宮駅から東西南北に鉄道網が伸びました。

▲開業当時の面影を残す1979年の日進駅(提供:さいたま市アーカイブズセンター)

1940年(昭和15年)には国鉄川越線が開通。日進・指扇各駅もこのとき開業しました。この時期に川越線が建設された背景には、東京の都市機能がマヒした際に、東北・上信越地方と東海道地方をバイパスさせる軍事的な側面もあったといいます。

というのも、当時は第二次世界大戦真っただ中で、日本も総力戦を掲げていた時代だったのです。国有鉄道の施設は木造のものが多かったため、空襲に備え防火対策を施すなどしましたが、ついに1945年(昭和20年)4月13日夜から翌朝にかけて、大宮は米軍の空襲を受けました。このときの死者は1人、罹災者は1208人となり、その後も幾度か空襲が続きましたが、高い地点を飛行するB29に、日進などに設置されていた高射砲は歯が立たず、被害も拡大しました。

▲大宮地区で発見された不発弾(提供:さいたま市アーカイブズセンター)

ご存知の通り、1945年(昭和20年)8月15日に日本はポツダム宣言を受託、その後正式に降伏し、日本は戦争に敗れたのでした。

まとめ

ここまで、戦前・戦中の大宮駅の歴史を見てきました! みなさん、いかがでしたか?

次回は戦後から現代にいたるまでの大宮駅についてご紹介します。お楽しみに!

参考文献

さいたま市アーカイブズセンター編『さいたま市史 鉄道編 鉄道で語るさいたまの歴史』さいたま市、2017年

大宮工場内百年史編集委員会編『大宮工場百年史』東日本旅客鉄道株式会社、1995年

大宮工場70年史編集委員会『七十年史』、日本国有鉄道大宮工場、1965年

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社編『大宮駅120年のあゆみ-大宮駅120周年パネル展記録』東日本旅客鉄道株式会社大宮支社、2005年

日本国有鉄道大宮駅編『大宮駅100年史』、日本国有鉄道大宮駅、1985年