鉄道のまち大宮紀行(2) 大宮・浦和・上尾の都市モノレールと驚きのレジャー施設構想

みなさん、こんにちは! 大宮・日進の地域情報サイト「最新!NISSIN」代表のnorthです。

古くから鉄道と関わりの深い大宮の歴史やおすすめスポットについて扱う「鉄道のまち大宮紀行」、第2回のきょうは「大宮・浦和・上尾の都市モノレールと驚きのレジャー施設構想」についてご紹介します!

各市町の取り組みと浦和市の検討

皆さんがご存じの通り、現在こそさいたま市という1つの大きな自治体がありますが、2001年の合併前は大宮市、与野市、浦和市にそれぞれ分かれていました(2005年に岩槻市も合併)。そんな合併前の1980年、東京への依存からの脱却や、埼玉県の中心都市として一体的に街づくりを進めるために、与野市、大宮市、浦和市、上尾市、伊奈町を対象とした「埼玉中枢都市圏構想」の取り組みが始まり、基本計画が策定された1985年には各市町の頭文字をとって「YOU And I プラン」と名付けられました。

▲合併1年前、さいたま新都心の街びらき(2000年、提供:さいたま市)

取り組みが始まった1980年、浦和市は単独で「浦和市都市モノレール」の検討を開始しました。当時の東西方向の道路は幅員20m以下の狭い道路が多く、車の急速な普及によりバスも定刻通りの運航が難しくなっており、交通事情の改善が必要だったためです。モノレールは1本の軌条により走行する鉄道の一種で、この時すでに浜松町駅から羽田空港へ向かう「東京モノレール」などが開業していました。新たに線路用地を確保しなければならない通常の鉄道路線と比べて、モノレールは道路の上空に軌道を敷くことで用地を節約できるメリットがありました。

▲現在の東京モノレール(2017年)

調査を委託された日本モノレール協会は、埼玉大学(現・桜区下大久保)から建設中の通勤新線(埼京線)の新駅(現・南与野駅)を通り、東北本線の北浦和~浦和間で交差し、浦和市東部(現在の浦和美園付近)に至るルートを提案したそうです。しかし、埼玉県の担当者は浦和の埼玉県庁や浦和駅を通るルートを要望し、議論が重ねられました。ちなみに、現在でこそイオンモールや埼玉スタジアム2○○2がある浦和市東部(浦和美園地区)ですが、モノレールの開業に合わせてレジャーランドなどを含む開発を行う計画もあったようです。

モノレールのルートは・・・

モノレールについて検討を重ねてきた浦和市は、1982年に「埼玉中枢都市圏構想(のちのYOU And I プラン)」にモノレールの話を折り込めないか模索しました。その後、1985年に策定されたプランの主要16プロジェクトの1つに「都市モノレール等の建設」が盛り込まれました。浦和市と同じく、交通事情を改善し、市街地の開発を促進するためです。

大きな開発が計画されていた水判土(みずはた)・植水地区(現在はさいたま市西区)と大宮駅、 浦和東部地区(現在はさいたま市緑区)と浦和駅の交通機関の整備もそれぞれ重要だとされました。そこで計画されたルートが下の画像です。

※スマートフォンなどでは見づらいので、拡大してご覧ください。

青線や青文字で示したところが都市モノレールの計画ルートです。そのほかは現在の地図で、黄色が主要道路、橙色が高速道路、青緑が新幹線、緑色がJR線、赤色が私鉄・第三セクターとなっています。

先ほど説明した浦和東部から埼玉大学までが「浦和都市モノレール」、東武野田線の七里駅から新駅(現・さいたま新都心)、大宮を通り水判土、そこから分岐して北は川越線新駅(現・西大宮駅)へ、南は浦和都市モノレールと接続するのが「大宮都市モノレール」、川越線新駅(現・西大宮駅)から北へ向かいA地点(上尾駅北側)を経由しニューシャトルと接続するのが「上尾都市モノレール」です。上尾都市モノレールはA地点より先、実線で示した分岐後に伊奈中央駅・原市駅へそれぞれ向かう案と、破線で示した上尾駅を経由し丸山駅へ向かう案の2つが検討されていました。また、浦和都市モノレールは同じ時期に計画があった「川口都市モノレール」と浦和東部より先で接続する案もあったようです。

▲上尾都市モノレールが接続しようとしていたニューシャトルは1983年開業(1983年、提供:さいたま市)

これらを合わせると全長は40km近くなり、同時期に計画され後に開業した千葉都市モノレールが総延長15.2kmであることを考えるとかなり長い路線ということが分かります(もっとも、千葉都市モノレールも計画では40kmほどあったようですが)。

リニアへの転換と山積する課題

しかし、ここで課題が浮上します。一般的にモノレールを通す道路は幅員が22m必要であるとされるのに対し、多くの道路が16mほどの幅員しかなかったのです。そこで、日本モノレール協会は小型化が可能なリニア新交通システムを提案しました。ここでいう「リニア」とは駆動装置のことを指し、車両が浮上するのではなく鉄の車輪で走行するもので、現在の都営地下鉄大江戸線などがそれにあたります。

これで解決かと思えましたが、課題は他にもありました。大宮市東部ではそもそも道路計画がなく、ルートが被る路線バス会社との調整・補償が必要になり、さらに在来線と接続する4駅のうち2駅が新しく作らなければいけなかったのです。道路がなければ上空に線路が敷けないため、まずは道路整備から進める必要がありました。

▲水判土方面へとつながる三橋中央通りの大宮駅付近(2023年)

また、埼京線も開通し路線バスを再編しようとしていた与野市と、1983年に開通し1990年には内宿まで延伸したニューシャトルを町内に持つ伊奈町はいずれも消極的な対応で、計画に陰りが見えてきました。

1985年8月、日本モノレール協会はまず大宮~水判土間にリニア新交通システムを建設することを提案しました。このうち一部を先に整備して、試験とPRを行うことも同時に提案されていたようです。ですが、県は開発の遅れから計画を決定できませんでした。

夢ある水判土の開発構想

一方、日本モノレール協会は1988年3月から熊谷で開催された「’88さいたま博覧会」に実際に乗れるリニア新交通システム「リムトレン」を出展し、実用化に向け準備を進めていました。

▲博覧会のリムトレン(1988年、出典:Wikipedia、撮影:ころぞう)

そんな同協会が同年8月「水判土地区開発構想」を打ち出しました。およそ300億円をかけて年間来訪者数が700万人ほどの複合施設を水判土に建設する構想です。それによると、オールシーズンの都市型インドアスキー場や子供からサーファーまで楽しめるウォーターパーク、150室を擁するホテルや大規模なグルメガーデン、すべてのスポーツが出来るスポーツメッカ、多目的イベントに対応するシアター、世界中の温泉やサウナが楽しめる健康ランドなど、とてつもなく壮大で夢があふれる複合施設が構想されています。バブル期とは言え、ものすごい構想ですよね。

当時、水判土は1970年代後半を中心に10年ほど「ちこう大宮ウォーターパレス」という、9レーンの40mスライダーや200mの流れるプールを備えた大規模レジャープールがあったようですが(1984年の航空写真では無くなっています)、それを除けば農地と住宅しかない地域で、実現すれば超がつくほどの大開発になっていたことでしょう。

▲水判土交差点とちこう大宮ウォーターパレス(1979年、提供:国土地理院 一部加工)

疑惑と課題、そして

1989年6月、大宮市議会で「リニアモーター事業化促進に関する決議案」が全会一致で可決されました。しかし翌月、大宮市、与野市、浦和市の3市連絡会議で「日本モノレール協会は政治的に活動していて、リニアの売り込みを図っており、大宮市の決議にも関与している。リニアの機種については特定企業と結びついている」と情報共有がなされました。

また、大宮~水判土間の3.2kmでは短すぎることや採算の問題、道路が整備されていないことや沿線開発の遅れ、さらにはバス会社との調整もできていないなど課題が非常に多いことから、計画は下火になっていきました。

そして1992年、「埼玉中枢都市圏業務核都市基本構想」が承認され、2000年の首都高開通など、道路の整備によって各市町は交通事情を改善していきました。リニア新交通システムについてもその後も検討されたようですが、水判土の開発構想も幻となり現在に至ります。

大宮~浦和美園 こんな提案も

さて、現在こそ開発され賑やかになった浦和東部地区(浦和美園)ですが、大宮とのアクセスが悪く、直接連絡する「東西交通大宮ルート」について現在も検討が進められています。

▲さいたま市議会(2023年)

そんな中、2018年12月のさいたま市議会定例会では金井康博市議(西区、さいたま自民)が、モノレールとリニア新交通システムの話題を挙げたうえで、「浦和美園から大宮、さらには西の水判土方面までモノレールを建設し、将来的には東は越谷へ、西は所沢、さらには多摩都市モノレールと接続してはどうか」と提案しています。これに対し市は「課題があり周辺市町の意向も把握する必要がある。東西交通大宮ルートはLRT(次世代型路面電車システム)を前提として検討(2018年当時)していて、モノレールは選択肢にないが、市内の交通ルートを引き続き検討していく」としています。

さらに2023年6月の定例会では新藤信夫市議(大宮区、さいたま自民)が「浦和美園~大宮は、地下鉄7号線(市内では浦和美園までと、延伸が予定されている浦和美園~岩槻の区間)とも接続できる地下鉄で整備するのはどうか」と質問しています。こちらは市は「地下鉄は優れていると考えているが、地下鉄7号線の動向や周辺の開発状況を総合的に勘案していく」としました。

まとめ

みなさま、いかがだったでしょうか?

上尾から大宮、浦和、さらには川口にまでつながるような壮大な都市モノレールの計画をご紹介しました。さらには今では考えられないバブル期の水判土開発構想も取り上げています。今後も浦和美園~大宮間の交通などについて議論がなされると思いますが、過去の事例を振り返って最善の選択ができるといいですね!

ここまでご覧いただき、ありがとうございました。鉄道のまち大宮紀行、次回もお楽しみに!

※以下の資料を参考にしました

さいたまYOU And Iプランの実現に向けて(1987年1月、石原猛男)
浦和市史 通史編Ⅳ(2001年3月、浦和市)
さいたま市アーカイブズセンター紀要第1号 1980年代における浦和都市モノレール構想 ―東部地域の「自立都市」計画を中心に―(2017年3月、恩田睦)
さいたま市史 鉄道編(2017年5月、さいたま市)
埼玉中枢都市圏における都市交通問題 ―1980年代の業務核都市における都市計画と都市交通―(2017年8月、恩田睦)
上尾市都市モノレール 埼玉中枢都市圏モノレール構想(ウェブサイト、モノレール・ジャパン)

記事作成にあたって、多くの部分は明治大学・恩田睦准教授の論文を参考にしています。ありがとうございます。また、「ちこう大宮ウォーターパレス」について、大宮探索さんに資料・情報をご提供いただきました。ありがとうございました!