鉄道のまち大宮紀行(4) 大宮駅140年の歴史・後編

みなさん、こんにちは! 日進大宮なび代表のnorthです。

特集「鉄道のまち大宮の140年」の一環として以前からの連載である「鉄道のまち大宮紀行」を更新していきます。第4回は第3回に続いて「大宮駅140年の歴史」の後編をお届けしまします!

前編をお読みになられていない方は前編をお先にどうぞ!

戦後の復興

1945年(昭和20年)、日本が戦争に負けると、本土の復興が急務となりました。

鉄道施設や車両も大きな被害を受けているなか、引き揚げてきた軍隊などの輸送需要も高まり、急ピッチで復興が進みました。1949年(昭和24年)には「国鉄」=日本国有鉄道が誕生しました。1952年(昭和27年)には上野~高崎間の電化が完成し、電気機関車や電車が走れるようになりました。ただ、電車数が足りず、電気機関車牽引の列車も多かったといいます。1958年(昭和33年)には東北本線大宮~宇都宮間が電化開通しました。

▲”開かずの踏切”川越新道踏切(時期不明、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

このころ大宮駅には構内踏切がありましたが、日中12時間のうち7時間も閉まっている「開かずの踏切」でした。そこで、跨線橋の建設が計画され、1959年(昭和34年)、大宮駅の北側に「大栄橋」が(一部を除き)完成しました。

▲完成当初の大栄橋(1959年、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

▲大栄橋に登る子供(1960年ごろ、提供:さいたま市立博物館、※当時の時代背景を尊重しそのまま掲載しますが、過去から現在に渡り、大栄橋上へ登ることは禁止されています。)

さて、国鉄は早くから赤羽~大宮間の線路増設を計画していましたが、その計画がいよいよ実行されたのが1963年(昭和38年)7月のことです。これは上信越線の複線化などによる列車数の大幅な増加が予想されたためで、総工費は122億円を計画していました。この工事に合わせて、大宮駅北側の高崎線と東北本線の平面交差を立体交差にすることも決まり、こちらは1965年(昭和40年)9月に完成しています。

▲1966年の大宮駅東口(提供:さいたま市アーカイブズセンター)

一方、赤羽~大宮間の線路増設工事は、4・3・10(よん・さん・とお=昭和43年(1968年)10月の大規模なダイヤ改正)をもって完成し、電車線(京浜東北線)、旅客列車線(現在の上野東京ライン)、貨物線(現在の貨物線と湘南新宿ライン)がそれぞれ複線化、すなわち三複線化されました。

1969年(昭和44年)には東大宮車両基地(現在の大宮総合車両センター東大宮センター)の一部が完成し、ますます大宮は鉄道のまちとしての性格を強めていきました。

▲大宮総合車両センター東大宮センター(2021年)

大宮民衆駅の開設

戦後の国鉄は、鉄道設備の整備に多額の費用を要したことなどから、駅舎やサービスの面で十分にお金を使えていませんでした。一部では自治体などが費用を一部負担し駅舎を開業させる例もありましたが、これには限度もありました。そこで、部外者が建設費用を分担し、駅舎完成後は駅構内を商業施設にして使用するという「民衆駅」の建設が進むことになりました。

▲1967年の大宮民衆駅(提供:さいたま市アーカイブズセンター)

大宮駅もこの「民衆駅」方式で駅舎が建設されることになり、1966年(昭和41年)、国鉄44番目の民衆駅として建設が始まりました。このときの東口駅舎は築30年以上の2階建て木造駅舎で、老朽化が進んでいたといいます。翌1967年(昭和42年)に供用が開始された新駅舎は、商業施設部分の「大宮ステーションビル(OSB)」を含めると、地下2階、地上6階の8階建ての立派なもので、これは現在も大宮駅東口・ルミネ大宮LUMINE1として使用されています。1968年(昭和43年)には東西地下自由通路も開設されています。

新幹線の建設

さて、1964年(昭和39年)開業の東海道新幹線が成功を見ると、次々に新幹線建設の機運が高まっていきました。東北・上越各新幹線についても1971年(昭和46年)に認可が下り、建設に着手しました。起点駅は東京駅とする案と、新宿駅とする案がありましたが、まずは東京駅を起点に建設することになりました。

▲東北新幹線200系(提供:裏辺研究所)

しかし、大宮駅南側の線路建設に問題が生じました。というのも、地盤が軟弱で地下に新幹線を建設できないことから高架での建設が決まったのですが、これが騒音問題につながり地域住民の猛反対にあったのです。

ひとまず大宮駅から北が先行して開業されることに決まり、大宮駅の工事も本格化しました。西口駅舎跡地には地下1階、地上3階建てのターミナルビルが建設され、地上14mの高さにある3階に3面6線の新幹線ホームが完成しました。同時に在来線の上の橋上駅舎と地下ホーム(現在の埼京線ホーム)も建設され、大宮駅は名実ともに巨大駅へと変貌を遂げました。なお、1981年(昭和56年)の橋上部・東西自由通路の完成に伴い東西地下自由通路は廃止されています。

▲東北新幹線の開業(1982年、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

待ちに待った1982年(昭和57年)6月23日、ついに東北新幹線大宮~盛岡間が開業し、下り1番列車「やまびこ11号」が歓声の中、7時15分、大宮駅14番線ホームを発車しました。セレモニーでは吹奏楽で「大宮音頭」が演奏され、薄曇りの天候とは反して華やかな雰囲気だったそうです。つづけて各駅停車タイプの「あおば」も運行を開始しました。

その後同年11月15日、上越新幹線大宮~新潟間が開業し、好天の中、下り1番列車「とき301号」が発車しました。17番線ホームを6時30分に発車した「とき」に続き、速達タイプの「あさひ」も発車し、大宮駅は新幹線の起点駅となったのです。

▲「We」(1982年、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

新幹線の開業と同じ1982年(昭和57年)には大宮駅ビル「We」が開業しました。現在はルミネ大宮LUMINE2となっています。

ニューシャトルと埼京線の開業

新幹線開業の翌年、1983年(昭和58年)12月に、大宮駅から伊奈町に向かう新交通システム「ニューシャトル」が開業しました。新幹線の高架の張り出し部を活用した新たな交通手段として期待の高かったニューシャトル。現在は内宿駅が終点ですが、地権者との交渉の関係から、当時は手前の羽貫駅までの開業でした。

▲開業当時のニューシャトル(1983年、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

ニューシャトルは新幹線建設に難色を示していた沿線自治体への補償として建設されたもので、当時は沿線人口の少なかった伊奈町に鉄道を通すことに慎重な見方もありましたが、まちづくりを活発化させるという地元の主張もあり実現したものです。

大宮市内も当初は新幹線反対の意向が強くありましたが、のちに大宮桜木団地自治会を除き条件付き賛成に転じました。一方、与野以南は新幹線開通前、反対意見が根強く、建設は難航しました。

しかし、時間がたつにつれ条件付きで新幹線建設を容認する住民も出てくるようになりました。というのも、ニューシャトル同様、新幹線沿いに「通勤新線」を建設して、通勤時の混雑を解消した方がよい、という意見が強くなってきたためです。1978年(昭和53年)ごろになると、与野・浦和・戸田各市議会で条件付き賛成に転じる決議を取ったことで、1980年(昭和55年)ごろには反対派の活動も下火になりました。

▲大宮駅での埼京線開業セレモニー(1985年、提供:さいたま市アーカイブズセンター)

その後工事が進み、1985年(昭和60年)9月30日にようやく通勤新線(埼京線)が開業しました。路線名称について、埼玉県知事の畑和は「公園都市線」を提案していましたが、東急田園都市線と混同されることを避けるため埼京線に落ち着きました。

駅ナカ商業施設の変遷

1967年(昭和42年)開業の大宮ステーションビル(OSB)は1982年(昭和57年)に「PINO」となり、1987年(昭和62年)には「KISS」となりました。一方、1982年(昭和57年)には西口側に「We」が開業しています。1991年(平成3年)にこれらはそれぞれ「大宮ルミネ1」「大宮ルミネ2」(ルミネ大宮LUMINE1、LUMINE2)となり、現在まで営業しています。

▲エキュート大宮

また、駅構内には2005年(平成17年)、「エキュート大宮」が誕生しました。現在では都内の駅に点在するエキュートですが、大宮が第1号店でした。同じ2005年(平成17年)開業の「Dila大宮」は2020年(令和2年)にリニューアルされ「エキュート大宮ノース」となりました。

現代の大宮駅

1985年(昭和60年)、新幹線が上野駅まで延伸すると、大宮駅は途中駅となりました。同年、モニュメント「行きかう・線」が完成。現在は「豆の木」の愛称で定番の待ち合わせスポットとなっています。

▲豆の木

1987年(昭和62年)、国鉄民営化により大宮駅はJR・東武鉄道・埼玉新都市交通(ニューシャトル)の共同利用駅となりました。2001年(平成13年)には湘南新宿ラインが、さらに2015年(平成27年)には上野東京ラインが開業し、大宮駅はますます利便性を増しています。新幹線も北は北海道、西は福井県まで直通するようになり、将来的には北陸新幹線の京都・大阪への延伸も見込まれています。交通の結節点としての性格がさらに強くなる大宮駅は今後どのような変貌を遂げるのでしょうか。

将来の大宮駅

2018年(平成30年)7月、大宮駅グランドセントラルステーション化構想(大宮GCS化構想)が策定されました。大宮GCS化構想とは、「駅周辺街区のまちづくり」「交通基盤整備」「駅機能の高度化」を合わせて進めることで、大宮とさいたま市の立ち位置をより飛躍させ確実なものにする構想です。「東日本の玄関口」として、「東京の副都心」としてより一層大宮が発展できるよう、再開発計画や個々の開発に際しての取り決めなどをつくることを目指しています。

▲大宮駅GCS化構想(さいたま市ホームページより)

構想では、大宮駅の北側、大栄橋との間に新東西通路を作り「ロの字ネットワーク」を形成することや、東口に広場や人が滞留できる空間を作ることが提案されています。また東口のロータリーを整備することで、交通渋滞を解消するほか、地下空間に駐車場などを整備する計画もあります。新東西通路が完成すれば、東武~ニューシャトル間の乗り換えの利便性が飛躍的に向上するだけでなく、回遊性が高まり、人が集まることでにぎわいも生み出せるようになります。

実現はまだまだ先の話になりそうですが、これからますます発展していく大宮駅に期待が高まりますね。

まとめ

みなさん、いかがでしたか?

2回にわたり鉄道のまち大宮・大宮駅の歴史を振り返ってきました。

紆余曲折ありながらも発展を遂げてきた大宮駅。今後の大宮駅にも注目です!

ここまでお読みくださりありがとうございました!

参考文献

さいたま市アーカイブズセンター編『さいたま市史 鉄道編 鉄道で語るさいたまの歴史』さいたま市、2017年

大宮工場内百年史編集委員会編『大宮工場百年史』東日本旅客鉄道株式会社、1995年

大宮工場70年史編集委員会『七十年史』、日本国有鉄道大宮工場、1965年

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社編『大宮駅120年のあゆみ-大宮駅120周年パネル展記録』東日本旅客鉄道株式会社大宮支社、2005年

日本国有鉄道大宮駅編『大宮駅100年史』、日本国有鉄道大宮駅、1985年