鉄道のまち大宮紀行(1) 大和田の機関車引込線を辿る

みなさんこんにちは!最新!NISSIN代表のnorthです。

今回からの新連載「鉄道のまち大宮紀行」、古くから鉄道と関わりの深い大宮の歴史やおすすめスポットについて扱います。

さて、初回となるきょうは「大和田の機関車引込線を辿る」ということで、見沼区にある幻の廃線について紹介します!

大和田にあった戦時中の機関車引込線

今から70年以上前の戦時中、大宮でも様々な動きがありましたが、大和田に機関車引込線があったことはあまり知られていません。それを示す資料についても、近年まで乏しい状況にありました。

しかし、引込線があったことを示す重要な資料が存在します。まずはこちらの写真をご覧ください。

(提供=国土地理院)

こちらは1946年2月15日に米軍が撮影した大和田の航空写真です。

お分かりでしょうか?下を横切る線路から分岐して、白い線のようなものが見えます!そうです。これが機関車引込線なのです。下を横切っているのが現在の東武野田線(アーバンパークライン)で、分岐点のあたりにあるのが大和田駅です。そして北端、線路終端部にある2つの建物が大砂土東小学校となります。

引込線建設地が大和田に

引込線が出来た当時、日本は太平洋戦争の真っただ中。戦況は激しさを増してきました。余談ですが、大宮工場(現在の大宮総合車両センター)では、軍の飛行機の部品や落下タンク、火砲搭載車も造っていたといいます。

当時、高崎線沿いに関連施設が多くあったことや、大宮機関区があったことなどから、大宮も攻撃の対象になっていたとのこと。そこで、運送などにおいても重要な蒸気機関車を大宮機関区から「疎開」させることにしたのです。

場所を決めるにあたっては、アカマツやドングリがなる木が大量にある森林だったことから、機関車を隠しやすい大和田に決まったといわれています。

昭和20年代の大和田駅(提供=さいたま市アーカイブズセンター)

そして1944年ごろ、ついに引込線が出来ました。大和田駅を起点とし、大和田病院のあたりを通って大砂土東小へ向かうルートで、引込線の途中には方向転換用の三角形の線路、いわゆるデルタ線も設けられました。工事は久喜鉄道大隊1個中隊が担当したといわれています。

D51蒸気機関車の「疎開」

蒸気機関車の疎開は主にD51形式(通称=デゴイチ)を対象に行われました。現在のさいたま新都心にあった機関区から、大宮駅で東武鉄道に入り、大和田まで向かうというものです。ちなみに、現在こそ接続されていませんが、当時は国鉄と東武野田線の線路が繋がっていました。

昼間の運用を終えた多くの機関車を一気に大和田まで持っていくために、機関車を何両もつなげる「重連」で大和田へ回送させていたといいます。当時の人の話では、3重連や4重連で運行されていたとも。そうして回送された機関車たちは翌朝まで大和田の森の中で過ごしました。

また、蒸気機関車は常に釜の火を焚いていないといけないため、夜間でも火がついていたといいます。地元の人はそれを目印に爆弾を落とされるかとおびえていたそうです。

引込線のその後と廃線跡

皆さんもご存じの通り、1945年夏に終戦を迎えました。

戦後、引込線は放置されたままになり、片付けは地元の方が手作業で行ったといいます。線路の下に置いた枕木のほか、貨車まで放置されていたというので驚きです。戦後の物資不足の中で、枕木は薪として利用されたといいます。

そんな引込線の遺構と思われるものが今でも残っている場所があります。

見沼区大和田町2丁目の住宅街の中に残っているのは、線路の下の土台と思われる構造物です。

上の写真の舗装部と住宅の間の草が生えているところに線路が通っていました。写真中央、舗装部の右側のコンクリートが線路の土台です。

近くで見た写真です。よく見えないのですが、右側のブロック塀の下にも同じ土台があり、それぞれが線路の土台となっていました。

さらに近寄ると、線路を留めていたと思われるボルトのようなものもありました。このような貴重な遺構が今も残っているとは、驚きですね!

みなさま、いかがだったでしょうか?身近な場所に線路が引いてあったとは驚きですよね。今はほとんど名残を見ることはできませんが、おそらく唯一見ることのできる遺構も紹介しました。

鉄道のまち大宮紀行、次回もお楽しみに!

※以下の資料を参考にしました
まぼろしの機関車ひきこみ線-太平洋戦争末期大和田であった本当の話(2022年9月、春野図書館)
東武線大和田駅の機関車引込線(第2改訂版)(2019年5月、板倉雅宣)