【インタビュー】私と日進(1) 団塊の世代を振り返って 元市議・傳田ひろみさん

みなさん、こんにちは! 大宮・日進の地域情報サイト「最新!NISSIN」代表のnorthです。

今回は日進に縁がある人に思い出を伺う「私と日進」の第1回として、元さいたま市議の傳田(でんだ)ひろみさんにお話を伺いました。

※市議としての20年について伺った「元市議に聞く」はこちらからどうぞ!

日進への引っ越し

north:こんにちは!今日は、昔の日進についてお話を伺おうと思います。よろしくお願いします。

傳田:よろしくお願いします。

north:傳田さんは小学校の時、日進に引っ越してきたと伺いました。

傳田:そうですね。私は横浜出身で小学校3年生の2学期に日進小学校に転校してきました。そのころはまだ2階建ての木造校舎でした。

north:鉄筋校舎はまだなかったのですね。

傳田:はい。日進小の机は横浜と違って天板が上に開いて物を入れるタイプで、驚きました。私は現在車いすを使っていますが、当時は車いすを使っておらず、朝は母と学校へ行き、帰り道や校内では友人が手助けしてくれました。6年生の途中で療育園へ1年間行くことになりましたが、日進小でのことはとても懐かしいです。

north:ありがとうございます。療育園を経て1年生の途中から日進中学校に行くことになったということですが、日進中でのことを教えてください。

傳田:はい。私はいわゆる「団塊の世代(※1947~1950年度に生まれた第1次ベビーブームで出世数が多くなった世代)」で、とにかく人数が多かったです。1クラスに50人以上もいて、それが9クラスもありました。

north:50人が9クラスもですか!今では考えられませんね。そのほか、思い出などありましたら教えてください。

傳田:今もありますが、「北辰テスト」を当時も行っていました。成績の順位が廊下に張り出されたのも覚えています。当時は体育館もなくて、卒業式は大宮北高校まで行ってやりましたね。制服もなかったような気がします。

※こちらについて調べてみたところ、日進中では制服は1963年から採用されたようです。採用当時、すでに上級生だった傳田さんの世代は制服がなかったということですね!

日進の街の様子は

north:続いて、日進の街の様子についてお伺いします。昔と今の日進を比べてみて、どこが変わったと感じていますか?

傳田:まず、日進駅が立派になったと思います。昔は跨線橋すらなく、線路を渡って隣のホームに行っていました。今はエレベーターもできて、誰でも利用しやすくなっていますね。列車は電車ではなくディーゼルの気動車で、1時間に1本、短い1両や2両編成で運転していました。

▲当時、川越線を走っていた気動車

north:今では考えられませんね。街の様子はいかがでしたか?

傳田:日進駅南側の七夕通りは、今もある峰岸さん(峰岸生花店)やいなりやさん(イナリヤ青果)、山水さん(割烹山水)などが当時もありました。神田精肉店のコロッケは昔から美味しいですね。学校帰りに食べていました。また、日進神社の前をバスが通っていました。大宮駅から出る循環バスで、そこは「バス通り」と呼ばれていました。

north:バス通りですか!ご自宅もそのあたりでしたよね。

傳田:はい。私の実家は農協(現JAさいたま日進支店)の近くでしたが、雑木林が広がっていたのを覚えています。お墓の間を通ると学校への近道でした。逆に、鴨川方面は畑や田んぼばかりで、台風の時は川が氾濫して湖みたいになっていましたよ。そういえば、畑の真ん中に大きい1本松が立っていました。短い川越線の列車が走っていて、のどかな風景でしたね。

▲「日進小学校沿革史」より、日進町1丁目の西北端にあった一本松(1963年撮影)

今後の日進について

north:最後に、今後の日進について思うことを教えてください。

傳田:昔からのお店もなくなってきましたが、あまり変わらないでほしいと思います。良いところを残していってほしいですね。田舎と都会の中間くらいで、いいところなので。

north:なるほど。良いところが残っていくといいですね。本日はありがとうございました!

傳田:ありがとうございました!

お話してくれた人

傳田ひろみ(でんだ・ひろみ)

1948年、東京生まれ。横浜に住んでいるとき、脊髄性小児麻痺により手足がまひ。小学校3年生の時日進に転居し、大学卒業後は学習塾を開き運営。その後、電動車いすを使い始め、1996年に「OMIYAばりあフリー研究会」立ち上げ。2003年にさいたま市議選で初当選。当初は無所属で、4期目途中からは立憲民主党に加入しさいたま市議を5期20年務める。