鉄道のまち大宮紀行(5) 大宮の鉄道工場130年のあゆみ・前編 大宮総合車両センター・大宮車両所・大宮工場の歴史

みなさん、こんにちは! 日進大宮なび代表のnorthです。

今回は大宮駅北側に隣接する「大宮総合車両センター」「大宮車両所」のあゆみをご紹介します!

大宮駅が出来るまで

1883年(明治16年)7月28日に日本鉄道第一区線、今の高崎線が上野から熊谷まで開通しました。この際、合わせて6駅が設置されましたが、列車は浦和を発車した後は大宮に停まらず、上尾まで向かっていました。大宮に駅が設置されなかった理由として、宿場町の機能が薄れて町が衰退していたことや、行政の中心が浦和に移ったことなどが挙げられます。

▲1914年(大正3年)の大宮駅(さいたま市ホームページより)

そんな中、青森まで至る路線(現在の東北本線)をどこで分岐させるかが議論になります。浦和や熊谷など様々な案が出るなか、地理的条件や地元の誘致活動から分岐点は大宮と決まり、1885年(明治18年)、大宮停車場(大宮駅)と大宮~宇都宮間が開業(※ただし利根川は仮に渡船とし、橋梁は翌年開通)しました。

鉄道工場開設の機運

1891年(明治24年)、上野から青森までの区間が全通し、直通列車が走り始めました。所要時間は上りが26時間15分、下りが26時間5分で、1日以上かけて東日本を縦断していたことになります。

▲白井助七銅像

当時上野以北の鉄道を運営していた私鉄の日本鉄道は独自の修理工場などをもたず、車両のメンテナンスなどは国の鉄道局に指導を受けていました。そんな中、工場建設の機運が高まり、地元の白井助七らの誘致活動も功を奏して大宮に工場が建設されることになりました。

大宮工場の開設

▲大宮総合車両センター隣接地に現在も残るレンガ造りの建物

1894年(明治27年)、大宮に工場を建設することについて逓信省の許可が下り、大宮停車場の北側、今のJACK大宮から北に細長い土地の整地がはじまりました。工場のうち、組み立て工場など鉄工に関する工場の建設材料には、主にレンガが用いられました。明治期は埼玉県が日本で三本の指に入るレンガの産出地だったとのことで、その関係もあるのではないでしょうか。

▲絵葉書「鐵道院大宮工場全景」(個人蔵)

一方、貨車や客車の修繕工場の多くは木造建築だったようです。1894年(明治27年)12月には一部の建物が完成し、工場の創業へと至りました。1896年(明治29年)には正式に「大宮工場」という名称がつき、多くの工場建物が建設されていきました。

開設当初の業務

▲大宮工場(1899年ごろ、提供:鉄道博物館)

1894年(明治27年)12月10日の開設時は職員が200名ほどいたという大宮工場。現在でこそ修繕や検査を主な業務としていますが、当時は工場という名前の通り車両を多く製造していました。

初期に主に製造していたのは客車で、等級別の客車のほか、郵便荷物車や救援車などを製造しました。

▲1040形タンク車(Wikipediaより)

1901年(明治34年)にはついに2Bテンダ機関車の製造がはじまり、1040形タンク車も6両製造されました。この後、1906年(明治39年)に鉄道国有法が施行され、逓信省作業局大宮工場となり、翌年には帝国鉄道庁大宮工場となりました。

碓氷峠の鉄道開通と専用機関車の製造

さて、1886年(明治19年)に高崎~横川間が、1888年(明治21年)に軽井沢~直江津間が開通しましたが、横川~軽井沢間の碓氷峠は地形が険しく工事が後回しにされていました。傾斜の激しい区間をどう克服するか検討された結果、レールと車両を歯車のような部品で噛み合わせる「アプト式」という方式が採用されました。当初は蒸気機関車での運行でしたが、トンネルが多いことなどを理由に電化されました。

▲ED40(Wikipediaより、撮影:Rsa)

機関車はドイツより12両を調達しましたが、運行量の増加からED40形式電気機関車を自作することになりました。大正時代にED40が14両制作されたのちは、スイスで製造されたED41と、それを参考にしたED42が導入されました。これらの機関車はEF63形式電気機関車が導入されるまで活躍し、また大宮工場の高い技術力を誇示する機関車だったのです。

「デゴイチ」の製造はじまる

その後、大正以降になると車両の新製は行われず、修繕業務に専念していましたが、1938年(昭和13年)から蒸気機関車の代表格「D51」(デゴイチ)の新製が大宮工場でも始まりました。総計で1115両が製造され、これは同一形式としては異例の多さです。

▲D51 187

同年9月に大宮工場のD51第1号となるD51 187号機が落成しました。その後5年間で計31両のD51を製造した大宮工場。第1号の187号機は今も大宮で展示されています。

関東大震災と大宮工場

▲工場内部の画像。レンガ造りの建物も多かった(絵葉書「帝國鐵道廳大宮工場發電部」、個人蔵)

1923年(大正12年)9月1日、関東地方を大きな揺れが襲いました。地震が発生した時刻はちょうどお昼休み。日陰を求めて休憩中だった職員の上にレンガ造りの建物が倒れて、大宮工場では多くの死傷者を出しました。関東大震災での大宮工場の犠牲者は23人。煙突も途中で折れるなど、レンガ造りの建物へも大きな被害が出ました。

太平洋戦争と大宮工場

戦争がはじまると、大陸の異なる線路幅に対応できるよう、機関車の改軌工事が行われるようになりました。そのほか、職員の大陸派遣も行われ、大宮工場からは総勢600名以上が動員されました。1942年(昭和17年)には大宮工場が大宮工機部となり、同時期には鉄道車両だけでなく兵器も生産するようになりました。高射砲の台座や、貨車を改造した火砲搭載車の製造も行われましたが、戦争は敗戦に終わっています。

▲大宮では戦後も不発弾が発見された(提供:さいたま市アーカイブズセンター)

この間、工場の一部機能を櫛引町や県外に疎開させたりもしましたが、1945年(昭和20年)4月には空襲により工場の設備と車両が破壊されました。夜間のため人的被害は軽傷1名で済みましたが、不発弾が675発も発見されたといいます。

まとめ

みなさん、いかがでしたか? 様々な車両を修繕・製造してきた大宮工場ですが、一方で災害や戦争にも巻き込まれたり関与したりしていました。

後編では戦後の大宮工場についてご紹介します! 記事更新を楽しみにお待ちください。

参考文献

宮谷慶一『煉瓦生産額上位府県と労働時間の分析並びに統計資料の調査対象に関する補足 -統計資料からみた日本近代における煉瓦生産について その2ー』、「日本建築学会計画系論文集」第76巻所収、2011年

さいたま市アーカイブズセンター編『さいたま市史 鉄道編 鉄道で語るさいたまの歴史』さいたま市、2017年

大宮工場内百年史編集委員会編『大宮工場百年史』東日本旅客鉄道株式会社、1995年

大宮工場70年史編集委員会『七十年史』、日本国有鉄道大宮工場、1965年

東日本旅客鉄道株式会社大宮支社編『大宮駅120年のあゆみ-大宮駅120周年パネル展記録』東日本旅客鉄道株式会社大宮支社、2005年

日本国有鉄道大宮駅編『大宮駅100年史』、日本国有鉄道大宮駅、1985年