【記念誌より】日進小を創った高橋源之輔

※本記事は日進小学校創立150周年記念誌の内容を掲載しているものです。

日進小を創った高橋源之輔

日進小はまもなく150周年を迎えますが、そんな日進小(上加学校)の創立に大きく寄与した人物がいます。下加村の高橋源之輔氏です。


高橋家は武蔵国が開国して以来、下加村に永住していて、高橋源之輔氏の4代前から名主役をつとめていたそうです。現在の日進町1丁目を中心に畑や林などを7〜8町歩(一説には60町歩)も持っていたといわれています。源之輔氏の祖父に当たる源左衛門氏は、儒学や漢学で有名な与野の西沢曠野(1743〜1821)に学んでいて、早くから屋敷で寺子屋を開いていたそうです。また、源之輔氏も子供の時から与野の漢方医西沢真原に学んでいて、学校が出来るまでは寺子屋の手伝いをしていました。


源之輔氏が18歳の時、父の跡を継いで名主になりました。その時期にちょうど政府では学校設置法の議論が起きていて、その時から寺子屋を学校に昇格させるのが彼の夢だったといいます。学制が施行されると彼は早速近くの村を説得して回りましたが、ほとんどの人が「百姓に学問はいらない」といった考えを持っていたので、彼らは源之輔氏に全てを任せて7カ村組合を作りました。満福寺に学校は開いたものの、それからが大変だったのかもしれません。施設の整備や就学率を上げるための父兄説得、教員の確保など、10数年に渡り努力を彼がしていたことは、昔から語り継がれています。しかし、学校を置いていた満福寺が火災にあい、移転先の金剛院も火災になるという災難が降りかかります。そこで彼はやむを得ず私財を投じて校舎を建設することにしました。

また、彼は政治活動にも熱心でした。大隈重信が立憲改進党を結成すると、趣旨に共鳴し、演説は聞きに行き県会議員の選挙があれば応援に駆け付けるなどしたそうです。しかし、大成村の村長だった矢島紋左衛門氏は板垣退助率いる自由党の応援に回ったため、源之輔氏と対立を深めていきました。1885年の校舎新築の際にも、700円を寄付する代わりに校名には大成をつけろ、学校の向きを大成の方向にしろと言っては源之輔氏を困らせ、結局名前は日進、校舎の向きは大成向きとなったのです。

この時にも源之輔氏は600坪の土地を提供したり現金の寄付をしたりと、教育への情熱は冷めることがありませんでした。しかし、増改築のたびに家財や土地を処分し日進小に寄付していたため、代々伝えられた財産をほとんど使い果たしてしまったといいます。そんなこともあり、家族からは冷ややかな目で見られていたそうです。

晩年まで学校の課外講義に参加するなど、教育に対する熱意のこもった源之輔氏でしたが、1906年の春に村役場で脳出血のため倒れ、7月29日に53歳で亡くなりました。その後、日進小学校西側に高橋源之輔氏の頌徳碑が建てられました。題字は当時の総理大臣、若槻礼次郎のものです。この碑はこれからも末永くこの地で学校を見守るでしょう。

▲高橋源之輔氏